2006,05,15, Monday
船橋情報3
船橋大神宮 「日本三代実録」の記事(863年)に意富比(おほひの)神社の名が記されている船橋市を代表する神社。境内には多彩な樹木が茂り大変美しい。駐車場から灯明台がよく見えます。 大神宮のシンボルの灯明台(県指定文化財)は夜間船橋沿岸を航行する船は、境内にあった常夜灯を目印にしていたが、 慶応4(1868)年の戊辰戦争の際に、船橋・市川地方も局地戦の戦場となり、その時幕府方脱走兵が船橋大神宮を拠点としたため、宿場・漁師町の大半が焼失。 灯明台は社殿とともに焼失。再建を望む声が高まり、地元の有志の寄付金によって境内にある、小高い丘の上に建てられた。明治13(1880)年に完成し、明治28(1895)年に廃止されるまで、政府公認の私設灯台として活躍した。木造瓦葺き、3階建てで、1、2階は和風、3階は西洋式灯台のデザインを取り入れた和洋折衷のつくりになっています。 2006年、水産庁の「未来の残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に認定。 社務所の小川さんによれば 「海抜12mの高台に、12メートルの灯明台が建てられました。 この場所に移築したのかと聞く方がよくいるが、 海老川からこちら側は、もともと海岸に近く他に何もなく 当初からここに建てられました。 灯明守が住んでいた訳ではなく、漁師たちが通いで夜勤めました。 2階までは階段で上がるが、3階へははしごをかけて上りました。 当時は石油ランプ3基を3階の底の部分の丸穴(下写真)にはめ、 反射鏡で照らし、その光は稲毛海岸や浦安まで届いたという。 室内は直火のため、すすと煙で大変な息苦しさであったといわれます。 一般には正月3が日に公開され、成人の日には、「燈明祭」が開かれ、灯明台が点灯されます。 土俵は駐車場の位置にありましたが、移動されました。もともとは約400年前に徳川家康が船橋に滞在した時、慰めに子供相撲を献上したのが始まり。家康は大いに喜んだといいます。 家康の船橋御殿が廃止された後も、その広大な地所を与えられて大神宮の祭礼に相撲は欠かせない行事の一つになり、特に江戸時代には見物人たちのエキサイトぶりから「船橋のけんか相撲」の名が生まれ、関東でも指折りの草相撲大会としてその名をとどろかせていました。10月には今でもしています」 日差しが強くなってきた為、大神宮はとても気持ちが良い。 灯明台を見て当時の海の近さを実感。 九段の常灯明台を思い出す人もいました。 船橋大神宮の灯明台祭 「今回の情報は役に立った!」→役に立ったよクリック♪ (この情報が気に入ったら、押してくれるとうれしいです) 1日体験申し込みはコチラ 会員登録はコチラ |